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牛若丸の波乱万丈人生を辿る!

  牛若丸縁の地 六条堀川六波羅鞍馬寺・鞍馬山五条大橋竜王町平泉伊豆
神戸市須磨香川県屋島壇ノ浦吉野

絵双六

全体図

牛若丸

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牛若丸の一生





【解説一】
牛若丸は源義朝の九男として産まれます。母は常盤御前で同母の兄が二人いました。
父が平治の乱で敗れ、謀反人として亡くなります。
この係累の難を逃れるため、常盤御前は三人の息子を連れて大和国(現奈良県)に逃れます。






【解説二】
平治の乱により平清盛は、有力武士であった源義朝等の政敵が一掃され
政権を握ることとなります。
こうして平氏の全盛期が始まりました。






【解説三】
母・常盤御前はその後京に戻って再婚し、牛若丸は11歳の時に鞍馬寺に預けられます。
兄二人はすでに出家し僧として生きることになっていました。
そして鞍馬山の鞍馬天狗に剣術を教えられた伝説が残っています。






【解説四】
元比叡山の僧だった武蔵坊弁慶は、力自慢に任せ武士から刀をうばっていました。
999本まで揃え、1,000本目の刀をうばうべく戦ったのが牛若丸です。
牛若丸は幼いながら、軽い身のこなしで弁慶を返り討ちにします。
そうして、牛若丸に打ち負かされた弁慶は、彼を自分の主と認め
生涯仕えることとなったのでした。
決闘の場所は、五条大橋とされることが有名ですが、
実は当時五条大橋はまだ存在せず、清水寺辺りだったという話もあります。






【解説五】
やがて成長した牛若丸は、僧になることを厭い、鞍馬寺を出奔して
3月3日の端午の節句に鏡の宿にて自らの手で元服したと言われています。
そうして、名を源義経と改めました。






【解説六】
その後、母の再婚相手の身内にあたる鎮守府将軍の藤原秀衡を頼り
奥州平泉に下ります。






【解説七】
治承4年(1180年)8月17日に兄・源頼朝が伊豆国で挙兵しました。
これを聞きつけた義経は、その幕下に入ることを希望し
兄のもとに馳せ参じ、涙の再会を果たします。






【解説八】
兄より平氏の討伐を任された義経は、一ノ谷の戦いで精鋭70騎を率いて
通常馬では降りれないとされるような険しい崖の上から
逆落としをしかけて平氏の軍を奇襲し大勝します。
この戦いでの活躍によって、義経の名が世に知れ渡ることとなりました。






【解説九】
また、屋島の戦いでも、暴風雨の中、少数の船で出撃し
追い風を使って常ならば3日はかかる航路を数時間で進軍した
奇襲を成功させ、山や家屋を焼き払い大軍に見せかけたことで
平氏の軍を敗走させました。
有名な弓使い・那須与一もこの戦いに参加し
かの扇の的の逸話を残しています。






【解説十】
ついに、壇ノ浦の戦いにおいて、水軍を編成した義経は
その戦いに勝利し、平氏を滅ぼしたのです。
こうして源平合戦は終結を迎えることとなりました。








【解説十一】
宿願を果たした義経ですが、大功を成したことにより
兄・頼朝を差し置いて、許可なく官位を受けてしまい
不信を抱かれることとなります。
結果、兄からの自立を図った義経は
造反者として追われます。
吉野まで逃れ身を隠した義経ですが見つかってしまい
ここで愛妾の静御前と離れ離れになりました。






【解説十二】
更に奥州平泉まで逃れますが、ついには追い詰められ
衣川館で自害しその生涯を終えたのでした。






【解説十三】
このような優れた武士でありながら非業の死を遂げた義経の一生は
多くの人の心に残り、その同情の念は判官贔屓と呼ばれました。
そうした人々の思いから、義経の生涯は物語として
永く語り継がれることとなったのです。




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参考文献等:
     牛若丸
     平家物語
     義経記
     源平盛衰記





 

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